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販売期間
2021/08/27 20:00 〜 2021/09/05 17:00
「おそれ」と「こわさ」を考える(独立研究者・森田真生、ゲスト:江本伸悟)
5,000円
※こちらはダウンロード商品です
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販売終了しました
※決済後、ゼミ受講ガイドのPDFファイルがダウンロード出来ます。
ご一読いただき、ガイドに記載されているリンクから受講登録をお願いいたします。
【日時】9月5日(日)14:00-16:30(途中10分程度の休憩を挟みます)
【参加費】5000円
(NOTHSTOREから決済をお願い致します。PDFファイルに受講登録のためのURLがございます)
講座はZoomウェビナーを使用して行います。
PC、タブレット、スマートフォン等から容易に受講でき、挙手、質問、テキストチャットのインタラクションが可能です。
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【 森田さんからのメッセージ 】
自分を超えた何ものかの存在を察知するとき、人は、これから起こりうる危険を警戒し(怖れ)、同時に、自分を超えたものの偉大さに畏怖の念(畏れ)を抱く。この意味で「おそれ」とは、根本的に謙虚さを伴う感情である。
「正しく恐れよ」という言葉に、僕が強い違和感を覚えるのは、「おそれる」ことの謙虚さが、みずからの「正しさ」を確信する傲慢さとどのように両立するかがわからないからだ。
「ものをこわがらな過ぎたり、こわがり過ぎたりするのはやさしいが、正当にこわがることはなかなかむつかしいことだと思われた」
寺田寅彦の随筆「小爆発二件」のこの言葉が、近年よく耳にするようになった「正しく恐れる」という表現の起源だとされている。
だが、おそれを正しさで飼いならすという発想から、最もかけ離れた思想を持っていたのが寺田寅彦ではないだろうか。宇宙は永久に怪異に満ちている。だから、「化け物がないと思うのはかえってほんとうの迷信である」と、寺田は随筆「化け物の進化」のなかで語ったのであった。
身近にいる子どもたちを見ていると、怖がることもまた一つの能力だと感じる。彼らは、毎晩のように、怖い話をしてくれとせがむ。怖さは、未知の世界が開ける可能性と不可分である。自分を超えた何ものかの到来に、子どもたちは感覚を開き続ける柔軟さを持つ。彼らを前にしていると、多少科学的に物事を理解できるようになっただけで、世界を見晴らし、自然に対してさえ「正しく」あれるような気にさえなってしまう自分の傲慢さが恥ずかしくなる。そして、「正当にこわがることはなかなかむつかしいことだ」と実感させられるのである。
火山もウイルスも台風も、僕たちはもっとおそれていいはずである。正しさの尺度を決めてそこに退避するのではなく、「おそれ」と「こわさ」から逃げないことこそ、自分を超えたものと対峙する道ではないのか。
今回は、私塾・松葉舎を主宰し、独自の立場で自然と向き合い続ける江本伸悟さんとともに、「おそれ」と「こわさ」について考えていきます。
「おそれ」と「こわさ」に蓋をするのではなく、新たな「おそれ」の感覚をともに開いていくような、そういう時間になればと思っています。
ご縁がありましたらぜひご参加ください